ありえない、町民
大変な事もいろいろ味わったけど、信濃町で人のあたたかさに救われました
信濃町に移住された人たちに「移住の理由」を聞いてみると、趣味や自然環境が理由の方が多い印象です。
しかし、信濃町に求めていることは、人それぞれです。
今日は、信濃町に移住してから「生き方」を見つけたという中澤さんにインタビューをしてきました。
■今回のインタビューはこの人
中澤さんは、どんな経緯で信濃町に移住して、今に至るのでしょうか。
東京で暮らす
都会の楽しさを味わう学生〜OL時代
==学生時代は、どんなことをされていましたか?
私は、生まれは群馬県高崎市なのですが、6歳からは長野市で育ちました。
高校を卒業するタイミングで、両親から「進学していいよ」と言われていたので、埼玉の短大に進学をしました。
思春期で、親元から離れたかったので、進学はちょうどいい機会でした。
選考は「英語」。
理由は、映画が好きで「大草原の小さな家」などを観て育ったせいか、海外の文化に憧れを抱いていたからです(笑)
学生時代、OL時代は、東京の都会的な楽しさを味わいました。
ショッピングに行ったり、飲み会やクラブなんかにも行きました。
長野市で暮らす
元夫との別れ。長野に戻ることに
==長野に戻るきっかけはなんだったのでしょう?
元夫との別れですね。
子どもが生まれたばかりの頃は、どうしても動けなかったのですが、上の子が3歳くらいになったタイミングで長野の実家に戻りました。
長野に戻って生活をするために「仕事」を考えたのですが、「人と関わりたい」という想いがあって、介護か看護の仕事がしたい、と思うようになりました。
そこで、一度、特別養護老人ホームに勤めてみたのですが、そこで出会った看護師さんに「あなたは看護師になった方がいい」と勧められたのがきっかけで、結局、看護師を目指すことにしました。
新しい仕事と、新しい家族
==看護師の仕事はイメージ通りの仕事でしたか?
看護師の仕事は、病院や配属された科によって、必要な知識がだいぶ違ってきます。
私の看護師としての最初の仕事は、重症心身障害者の病棟でした。
ここでは、特にコミュニケーション技術が必要とされ、声を発せない患者さんの意志を組み取りながら仕事をするので、「心で会話をする」ということを学びました。
看護師の仕事に大きなやりがいを感じながら働いていました。
==仕事は順調。逆に私生活はどうでしたか?
長野に戻ってきた時に、小中学校時代の同窓会がありました。
そこで、旦那との出会いがあったんですね。
出会う数年前アメリカに行っていたりと、いろいろカッコ良く見えたんでしょうね(笑)
看護師になろうとしていた時の相談にのってくれたり、看護師になってからも食事に行ったりしていました。
ずっとお友達だったのですが、何年かして「付き合ってあげてもいいよ」と言われました(笑)
いつも支えてくれていたので、私も「いいかなぁ」と思っていました。
その後、旦那と再婚をし、第三子が生まれることになり、最初の勤め先だった病院を退職しました。
育児休暇を終えるまで籍を残すこともできたのですが、これまでの仕事で勉強できなかった医療技術の勉強をし直したいと思って、また勉強をし始めました。
もっと上を目指して、勉強をする
※写真は町立 信越病院
==看護師として、もっと上を目指されていたのですね
猛勉強をして、やっとの想いで長野市の大きな病院に採用が決まりました。
夏に決まったのですが、入社のタイミングが4月ということで半年以上空くことに。その期間にも勉強をしたいなと思い、看護派遣で信濃町の病院に行くことにしました。
信濃町の病院は、全部の科が一緒の病棟にあり、大きな病院では専業化されてやらないことも、看護師として経験できたんです。
蜂や蛇などの毒性のある生き物による怪我や、除雪機による怪我など、田舎でしか起こらないようなこともあるよと教えてもらいました。
信濃町の病院は派遣だったので、秋から春にかけての期間限定。家のある長野市から40分くらいかけて車で通っていました。
==車で毎日40分も!?
街中を40分運転するのは辛いですが、信濃町までの道のりは、森林の中をドライブするので、いつも気分が良かったですね。
長野市から、たった40分行っただけで景色がガラッと変わるんです。それも楽しみでした。
==当時は、家庭との両立はどうはかっていたのでしょうか?
旦那は、結婚する前にずっと海外で勉強をしていたのですが、当時も家で勉強をしていたので、「主夫」をしてくれていました。
私が、経済的に家族を支え、旦那が家庭を守ってくれていたので、安心して働くことができました。
信濃町で暮らす
生活拠点を、いなかまちに
春が来て半年の契約が切れるタイミングで、病院側から「続けてもらえるなら、続けてほしいと」声をかけてもらえました。
真剣に、信濃町に住むということ検討しました。
信濃町の病院のみんなからは、「住むのは止めろ」と言われていました。
みんな信濃町に住んでいるのに(笑)
どうやら、信濃町の人は、「長野市に降りたい」と思って生活をしているようです。
その時に教えられたのが「信濃町に住んだら、履物が3つ必要になる」という話。
冬のシーズンは、1日に3足の靴を履き替えなきゃいけないそうで。
家を出る時に長靴。
車を降りて会社までのブーツ。
職場で履く仕事靴。
信濃町の冬は、この3種類が必要になると(笑)
旦那とも話し合った結果、信濃町に移住することを決め、長野市の病院をお断りしました。
旦那は雪が好きだったので、楽しそうでしたね。
あと、今は林業の仕事をしていて、田舎の生活にマッチしています。
==お子さんたちは転校するの嫌だったんじゃないですか?
長野市に住んでいた頃はマンモス校に通わせていましたが、信濃町の環境は子どもを育てるには、とても良いと思いました。
信濃町の教育を調べてみると、小中一貫校に統合されたばかりで、低学年と高学年の境目があるような無いような環境。
私が子どもの頃に、山間地域出身の友達がいたのですが、生命力というか、パワーが違うなと感じていたことを思い出しながら、自分の子どもたちも、自然の多い環境でのびのびと育ってほしいな~と。
中学1年生だった、3兄弟の真ん中の女の子は「転校したくない」という反応でしたね。
「友達と離れるのは嫌」と、悲しそうにしていました。
でも、信濃小中学校の対応で、子どもは心を開いてくれました。
学校から「入学許可のお知らせ」が届き、転校予定のクラスからビデオレターが届いたんです。
「待ってるよ〜」という友達からのメッセージが、子どもの背中を後押ししてくれました。
不安もあったけど、おかげで、転校してすぐに溶け込むことができました。
まさか、こんなにあたたかいおもてなしを受けると思っていませんでした。
==信濃町に実際に住んでみて、ギャップはありましたか?
いえ。
みんなに、おどかされていたせいか、良い点がとても良く見えました。
ギャップどころか、魅力ばかりでした。
みんなは、心配してくれたのでしょうけど(笑)
雪が多いことも、感動だった。
都市とは、四季が違うことにも感動。
今も継続して、信濃町の生活が好きです。
あと「家族のチカラ」をあらためて感じました。
==家族のチカラですか?
はい。
冬の話だけではないのですが、わかりやすいのは雪かき。
信濃町に初めて来た年に、雪かきや雪下ろしをしないと「屋根を持ってかれる」という話を聞きました。最初、意味はわかっていなかったのですが、冬になってみて「あぁ、こういうことか」とわかりました。
冬になると驚くほど雪が降るんです。
そこで、毎日の雪かきは欠かせません。下手したら1日やっている日もあるくらい(笑)
雪かきは、家族全員でしていて、子どもが手伝ってくれるのと手伝ってくれないのとでは、労力が大きく違います。子どもたちは遊びながら楽しんでやってくれていますが、協力してくれると親の私たちも嬉しいし、何より助かります。
「家族みんなで作業をする」って、長野市にいた頃は、ほとんど無かったな~と思います。
でも、信濃町に来て、雪のせい(おかげ)で、家族に助けられていて家族のチカラって、すごいな~と感じました。
病気を宣告され、人生を考え直す
信濃町の生活も3年が経とうという時に、体調を崩してしまいました。
診てもらった際、重い病気を宣告されました。
とてもショックでした。
これまでは、経済的に家族をサポートするのも生きがいだったけれども、心と身体が疲れすぎて、家族の前で笑顔でいられない状態になってしまいました。
看護師の仕事は好きだけど、このままフルで働けないと思いました。
そして、仕事を退職することにしました。
「人生、本当にやりたいことって、なんだったかな。」
そればかりを考える日々を過ごしました。
新しい目標に向かって
元気がなかった時期に、私を救ってくれたのは、長原農園さんでした。
昔からここの野菜が好きで、よく買いに行っていたのですが。
農薬を最低限しか使わないで作る、身体に優しい野菜の味が大好きでした。
お母さんの人柄もとても優しく、ここで話を聞いていると、心と身体が癒されていく感じがありました。
お店に通うようになって、お母さんから「うちを継がないかい?」というお誘いをいただきました。
病気は治療をして、回復に向かっているところでしたので、やってみようかなと思いました。
==大変な経験をされましたね。お仕事はどうですか?
お店のお手伝いをさせてもらって、まだ間もないのですが、楽しいです。
お店に訪れる方に接客をしたり、常連さんのおもてなしをしたり。
あと、この場所のおかげで、長原農園のお母さんお父さんや地元の人にいろんなことを教えてもらいます。
それは学校でも家庭でも習ったことのない、昔からの「人の知恵」なんです。
これは、私が子どもたちに伝承していきたいと思っています。
地域に「知識をつなぐ場所」が、あるといいなと感じています。
学校では習わない知識を教えてもらえる場所、それは子どもたちにとって財産になると思います。
==身体は、大丈夫ですか?
今はだいぶ元気になりました。
自分が弱い立場になってみて気づいたのですが、信濃町の暮らしは都会とは違い「生きるチカラ」が求められます。
何から何までやらなければいけないし、夫婦や家族で協力して頑張らなければいけない、そんな環境だなと思います。
例えば、子どもが体調悪くなっちゃった時に、親は忙しくても自分たちで何とかしなくちゃいけなかったり。
地域内に繋がりの少ない移住者の私たちは、助けを求められず、単体で頑張らなきゃいけないんです。
「私だから、できること」があると思っています
いろいろあったけど、私は、この町で人のあたたかさに救われました。
これからは、私が、悩みを抱える人たちのために助けてって言える場所をつくりたい。
心と身体が癒される場所、生きる知恵が溢れる場所、思いを分かり合える人が集える場所、そんな「場所」をつくりたいんです。
1人ひとりは弱くても、繋がりがあれば、安心できます。
今は、そんな目標を持っています。
ありえない、いなかまちは、あたたかい
信濃町に住んでみると「こんなものがあったらいいのに」ということが、たくさん見つかると思います。
中澤さんのように、これまで気づかなかった、新しい生き方を見つけられる人もいるでしょう。
「無いもの」もたくさん見つかりますが、人のあたたかさも見つけやすいのが、田舎の特徴です。
これから寒い季節ですが、人のあたたかさに触れに、ありえない、いなかまちに訪れてみてはいかがでしょう。