
ありえない、町民
都会で勝ち取った成功と味わった挫折。竹村さんが語る地元・信濃町の魅力と未来への挑戦
「子どものころは、地元が嫌で仕方なかった……」
このような気持ちで都市部の大学へ進学したり、就職したりした方は多いのではないでしょうか?
実は今回のライターの私・廣石もその一人。長野県飯山市で生まれたあと兵庫県丹波篠山市に引っ越しますが、子どものころはずっと「どうやったら丹波篠山市から出られるか?」と考えていました。
信濃町にもかつて同じ想いを持った人がいました。
しかし、その人は自分のやりたいことをやり切り、納得したうえで信濃町に戻ってきたといいます。
なぜ、子どものころは信濃町が嫌だったのか?
なぜ、それほど嫌だった信濃町に戻ってきたいと思ったのか?
飾らない言葉によって語られた、竹村さんの人生をたどってみましょう。
プロフィール
創業は昭和34年。祖父の代から続く養鱒場(ようそんじょう)を守る三代目

――黒姫ガーデンはどういった事業をしているのですか?
黒姫ガーデンでは黒姫山麓の豊富できれいな天然水を使い、ニジマス(虹鱒)やイワナ(岩魚)の養殖をしています。育てたこれらの魚は、長野県内のホテルや旅館、それにペンションなどの宿泊施設やレストラン、給食センター、それに物産店に卸しています。
ニジマスの甘露煮など(※)の加工食品にして個人のお客様に販売する他、養殖池での釣りも可能で釣った魚は持ち帰ることができます。
創業は昭和34年。今では祖父と父、それに私の親子三代で経営しています。
※ニジマスの甘露煮![]() ニジマスの甘露煮(上)とはニジマスを一度焼いて、甘辛いタレで2日間煮たもの。骨まで柔らかく、子どもから高齢の方まで楽しめる。左は塩をふって水分を飛ばして焼いたイワナの焼枯し。 |
――竹村さんは黒姫ガーデン以外の事業もしているのですか?
そうですね。私は信濃町出身ですが関東で働いていた時期があり、仲間(共同代表)と一緒に運送会社を立ち上げました。本社は関東ですが、その物流拠点を長野市と千曲市にも開設しており、引き続き運送会社の経営もしています。
――なかなかお忙しそうですね。
仕事もプライベートも、自分から忙しくなるようにしていますね。
プライベートでは昨年キックボクシングを始めたり、スパルタンレースと呼ばれる長距離走と障害物レースをかけ合わせた競技に出場するためのトレーニングに励んだりしています。
他にも趣味でラップを歌ったり、楽曲を作ったり、信濃町でPV撮影をしたりといろいろやっています。次はヨガインストラクターの資格を取ろうかと思っているところです。
――信濃町を盛り上げたいというお気持ちも強いとか。
はい。黒姫ガーデンにかかわらず、信濃町で事業を継続させるのは人口減少の問題などもあり簡単ではないのが現実です。地域の活性を考えるよりもまず自社の経営に集中するのが普通かもしれません。実際、周囲の方からそうアドバイスされたこともありました。
でも、私は逆じゃないかと思うんです。信濃町を盛り上げて、まずは多くのお客さんに信濃町に来てもらう。そうする方が、結果的に自社のためになるんじゃないかと思っています。これは黒姫ガーデンだけの話ではなく、町内で事業を行う多くの人に共通する話ではないでしょうか。
――信濃町が本当に好きなんですね。
そうですね、今は。でも、子どものころの私はとにかく信濃町を出たいと思っていました。今の若い方でも、そう考えている人は少なくないかもしれません。
「とにかく信濃町から出たい」と思っていた幼少期

――子どものころの楽しい思い出はありますか?
たくさんあります。私は野尻湖の湖畔にある野尻湖小学校(現在は廃校)に通っていましたが、全校生徒は70人ほどしかいませんでした。そのため、放課後は学年に関係なくほぼ全校生徒が集まって遊ぶという感じでした。
野尻湖で泳いだり、バナナボートに乗ったりと、みんなで楽しく遊んだ思い出はたくさんあります。

――それでも信濃町を出たいと思っていた理由は何だったのですか?
不便だからですね。子どものころの私にとって、信濃町は退屈な場所でした。自然はありましたが、中学生になると遊ぶ場所があまりない。そのため、友だちと遊ぶときはよく電車に乗って長野市へ行っていました。
とはいえ、電車では行けない場所へ行きたいこともあります。そんな時は両親に車で送迎してもらう必要があり、とにかく移動の自由がないといった印象でしたね。
――子どものころ、将来就きたい職業や夢はあったのですか?
私は小学校2年生のころから、野球をやっており将来はプロ野球選手になりたいと思っていました。当時(信濃小中学校ができる前)、信濃町の5つの各小学校には野球チームがあり、私が通っていた野尻湖小学校にも「野尻湖ナウマンズ」というチームがありました。ちなみにこの名前は野尻湖で発見された「ナウマンゾウ」からとったのだと思います。
中学2年生のとき、外部のコーチとして野球を教えてくれたのが、塩尻市にある野球の名門高校のOBでした。それがきっかけで私もその高校に行きたいと思うようになり、スポーツ推薦で入学しました。
――夢に一歩近づくとともに、「信濃町から出る」という目的が達成できたわけですね。
これで信濃町から出て自由になれると思いましたね。
高校での挫折とがむしゃらに働いた20代前半

――高校生活は充実していましたか?
充実というより、とにかく厳しくて大変でした。野球の強豪校なので練習が厳しいのは当然ですが、それ以上に上下関係が厳しかったんです。
自分の考えをきちんと伝える性格の私でも、野球部の先輩だけは怖くて逆らえなかったですね。それでもプロ野球選手になりたかったので、3年間の厳しい練習を耐え抜きました。
ただ、その先に見えてきたのは、周りと自分のレベルの差という「現実」だったんです。
野球に強い大学に進学して野球を続けることも考えましたが、両親から「大学で野球をやらせてあげられるほどの余裕はない」と言われたこともあり、大学に進学してもアルバイトをしなくてはなりませんでした。そうなると、野球の練習に十分な時間を割けません。それでは大学に進学する意味がないと思いました。
――その後、陸上自衛隊に入隊する、と。なぜ、陸上自衛隊を選んだのですか?
体を使う仕事で格好いい仕事をしたいなと思っていたんです。うちの家系は経営者や実業家が多く、公務員や会社員など安定した職業に就く人が少ない家系でした。自衛隊員は国家公務員のため、私が陸上自衛隊に入りたいと言うと両親はとても喜んでくれました。
ただ、結果的に陸上自衛隊は4年で辞めました。当時私の中にあった興味は「お金を稼ぐこと」。大きなお金を稼げる仕事ということで、投資用マンションの営業の仕事をするようになったのです。
はじめは会社員として働いていましたが、上司と反りが合わずに半年で退職しました。でも、その間に社内でNo.1の売上を上げていたため、一人でもやっていけると思って独立したのです。独立後は不動産を売りたい会社と買いたい会社の仲介のような仕事をしていました。
――求めていた「お金」は手に入ったのですか?
一定程度、満足できるほどには稼ぎました。好きなものを食べたり、好きなものを買ったり。まだ20代前半でしたが、お金で買えるものは自分が満足できる程度には買ったつもりです。
でも、それって終わりがないんですよね。お金を稼げば稼ぐほど物欲は大きくなり、余計な見栄も張りたくなります。それに人と比べちゃうんですよ。自分と同じような収入だと思っていた知り合いに久しぶりに連絡すると、「月収数千万円になっちゃったよ」って言われることもあって。
「〇〇万円稼ぐ」みたいな目標を達成しても次々に新しい目標ができるから、終わりがないんです。それに自分より若くて稼いでいる人もどんどん出てきて。
大人になって改めて気づいた自然の中で過ごす心地よさ

――それは辛い経験でしたね。
とにかくお金を稼ぐこと、そして人に勝つことが生きがいになっていました。信濃町に残した両親に親孝行したいという気持ちはありましたが、「ハワイ旅行に連れていきたい」とか「毎月仕送りを50万したい」とか、結局お金をベースに物事を考えている自分がいたんです。
営業の仕事は安定した収入がないという懸念から投資も行っていましたが、詐欺にあってお金を失いました。また、私に勧められてはじめた周囲の人も同じような目に遭って、その人たちからの信用も失ってしまったんです。
結局、お金を稼いで何がしたいのか……分からなくなりました。
――その状態から、どうやって立ち直ったのですか?
ある夏、ふと信濃町に帰ってきたんです。長期休暇には定期的に帰ってきていましたが、それとは別に。
その時に、それまであまり行ったことがなかった黒姫童話館へ行ったり、野尻湖で散歩したりしました。実家の近所のログハウスサウナを2時間半貸し切りで使ったこともありました。そうして自然の中でのんびりとした時間を過ごしていると、嫌でも自分自身と向き合うことになって。
自然の中でいろいろ考えていると気づいたんです。自然の中に身を置くのは本当に心地良くて、そんな環境に恵まれている自分は、実はすでに満たされているのではないか?と。その時に見た信濃町の空に輝く星は本当にきれいで、鳥肌が立ったほどでした。
――そんな時期に立ち上げたのが、今も経営している運送会社なんですか?
その会社の立ち上げは2020年ですが、実はその時期には信濃町へ戻りたいと考え始めていました。
同じころ、黒姫ガーデンを父の代で畳むという話になっていて、他の兄弟は継がないと言ったため、私が継ぐしかないと思ったんです。
ただ、黒姫ガーデンの事業だけで生計を立てていくのは難しいとも感じていました。当時私はまだ20代半ばだったため、結婚など今後の人生を考えると別の事業で経済的な基盤を作っておきたかった。そこで、仲間と一緒に運送会社を立ち上げて、まずそちらを軌道に乗せた後、2024年に信濃町に戻ってきました。
自分のやりたいことをやる。信濃町を一緒に盛り上げてくれる人、大歓迎!

――信濃町に戻って来るときは、どんな気持ちでしたか?
「信濃町」を盛り上げたいという気持ちが強くありました。まず、先ほどお話した「そもそも信濃町に来る人を増やしたい」という想いがありました。
信濃町に戻って来る際に背中を押してくれたのは、地元で頑張っている昔からの友人や、「ずっと信濃町に住み続けたい」と言いながら中学生のときに亡くなった親友の存在でした。
――信濃町に戻ってきたいと思っている人にメッセージはありますか?
「今の生活に疲れたな」とか「信濃町でゆっくりしたいな」と思って戻ってきたい人もいるかもしれません。でも今の生活から逃げるためではなく、目の前のことをやりきったうえで新しい挑戦のために戻ってきてほしいなと思います。
仕事と私事と志事。3つの「しごと」を信濃町でやりたいと思ったときが、戻って来るタイミングだと思います。ちなみに私にとっての「志事」、つまり人生をかけてやりたいことは、信濃町を盛り上げることです。何のために信濃町に戻ってきたいと思ったのか、その原点を大切にしてほしいなと思います。

――Uターンに限らず、どんな人が信濃町に来てくれると嬉しいですか?
まずは、私たちと一緒に信濃町を盛り上げてくれる人。そして、信濃町の自然の中に「住まわせてもらっている」という感覚を持てる人がいいですね。
信濃町は自然が豊かな一方、冬は大量に雪が降るため自然の厳しさを感じる場面も多々あります。でも、自然を敵視しないで自然の中に住まわせてもらっていると考えられる人なら、信濃町で楽しく暮らせると思います。
こういった気持ちを持った人なら、IターンでもUターンでもウェルカムです。
――今、信濃町で暮らす若い人たちに伝えたいことはありますか?
自分がやりたいと思うことをやった方がいいと思います。親が、友達が、SNSが・・・と周囲を気にすることなく、自分がやりたいことと真剣に向き合うことが大切ではないかと。
あと、一度は信濃町を出て、外の世界を知った方がいいと思います。外の世界で多くの経験を積むからこそ、人生が豊かになると思うんです。失敗したっていい。失敗から得られるものも多くあるし、失敗からしか得られないものもあります。
ポケモンで例えると、一生はじめの方のステージにいて敵を倒しているだけでは、一向にレベルは上がらないですよね?自分の人生を一つのコンテンツと考えたとき、挑戦しない人生が一番つまらないと思うんです。だから、自分のやりたいことを素直にやる方がいいと思います。
まとめ:信濃町の魅力的な自然と人

竹村さんは子どものころに嫌だと思っていた信濃町に、大人になってから戻ってきました。子どものころには気づかなかった信濃町の自然の魅力に気づいたのだと話していました。
信濃町には、自然の魅力以外にも人の魅力があります。竹村さんのようにUターンして、子どものころ過ごした信濃町を大切にする人。一方で、信濃町に縁もゆかりもなかったのに移住(Iターン)して信濃町を盛り上げようとしている人。
そういう人に会いたいと思ったら、都内で開催されるイベントに参加するのも良いかもしれません。2025年3月8日に開催される信濃町ファンクラブ公式イベント「信濃町のここが好き。観光だけじゃもったいない。」に、竹村さんを含めて信濃町に住む人が登壇します。
最後に。
竹村さんがDJ BILLという名義で、自分自身と信濃町をテーマにしたラップ「MAST」を作りました。これを聴きながら、今の自分と向き合う時間を作ってもらえればと思います。
「MAST」のPV(動画)はこちらで視聴できます。